ぬいしゃべと、ぬいしゃべの感想を聞いて、民族音楽を思った
自分の言葉が少しずつ奪われているように感じる。言葉を奪われて苦しいと思っている人、退屈しているひと、が、本当はいるように感じることがある。
そのことを、記録したり、認めたりしながらいることが、今、実は大事な気がして、これを書いてる。
賢いユリシーズのおおはまくんが「映画ぬいしゃべ」について書いているブログの文章を読んだ。そうしたら、自分も何か書いてみたくなった。ぼくとおおはまは、京都で10年前に出会って、聴いている音楽も昔から全然違うし、多分つるんでる仲間も普段しゃべっていることも様子が少し違うのだと思う。それでも、今までずっと、事あるたびに様子を尋ねたりしてきた仲間だ。彼はいま何をしてるだろう、何に感動して、何に苦しんでるんだろう、ていうことが、脈絡も無く気になってしまうということ。
そういう友達が、自分には何人かいる。
僕には「ぬいしゃべ」が、そんな、手紙を書くことを、ひとにさせる、装置のように見えた。映画の姿をした、もっと確かな、何か。
自分の言葉、って、本当はダサい。でも、そのぺったんこな言葉にこそ、心のうねりとか、記憶の関所とか、ひとが生きるヒントが潜んでいることをみんな知っている。
そういうことを、確認する、お茶会、が、ぬいしゃべ。なんだろうか。
かねこちゃんの以前の映画は、今思えば、自分にはよくわからなかった。多分、解れない、タームに自分がいたんだと思う。かなり落ちくぼんだところに、いたかも知れない。
いまは、どうなんだろう。
賢いユリシーズは民族音楽をやっている。民族音楽、っていうのは、ヨシトくんがエルビスプレスリーのことをそう言っているのが面白くて、自分でも使うようになった。言葉。
そうせざるを得ないとか、共同体の歌だから、とか言う理由で、なんだか僕は民族音楽に勝手な空想をしている。自分で勝手に、解釈を広げて、使ってみようとする、言葉。民族音楽って、本当にかっこいい。本当にその場で、しかるべきひとのために、そのひとを夢中にさせる。それはもう、ポップスを脱してるし、芸能界を置き去りにする。とか。
でも、思うのは、本当は民族音楽とは対極的なものに、今、自分たちが囲まれているんじゃないかということ。しなくてもいいことを、時々させられそうになるということ。そのことは、いまの僕の現在地にとって、とても基本的なことかもしれない
そして、テーマがアタマに戻ってしまった。
今住んでいる、谷戸のてっぺんにある家のような。そこから、海にめがけて。昔、水が湧いて小川を作っていた山の斜面のような。削られた粘土質の崖のような。そんなところを使って、ウィールを外したスケボーにのって。
夏に
雪遊びでもできないだろうか