夏の感想文
初夏から秋にかけて一番目に焼き付いているのは、モンゴルからチベットにかけて、ヤクを引きながら徒歩で旅したニセ僧侶の話。「天路の旅人」は沢木耕太郎の一番新しい書で、戦時中の日本人スパイの足跡を追いかけたノンフィクションの話だった。スパイの男は愛国心のあまり立身出世で南満州鉄道に入社して、そのままスパイになってしまった。ラマ僧に扮して当時敵国だった中国の西域まで歩いていき、乞食同然の暮らしをした。旅の途中に終戦を知らされ、それでも、そのまま本部に戻ることなく赴くままにインドのカルカッタまで旅をつづけた。20代だった彼は、もともと無口で、風貌のこともあって、他の巡礼者にも日本人だということがバレなかった。蒙古人の言葉を覚えて、大勢のキャラバンにも紛れ込んで一緒に旅をした。
ある日の道中、一行が大きな川に差し掛かった。川の水は冷たく、水量は多い。寄せ集まった何十人もの旅人と、ヤクや羊の群れを連れた一行は立ち往生してしまい、テントを張ったりしているうちに、ヤクが勝手に川を渡ってしまった。ヤクが戻ってこないことに人々は気をもみ、これからの旅程を不安に思っていた。そこに、スパイの男が、一人で川を泳いでヤクを連れ戻すことになった。内陸の旅人たちは、泳いだことがないので、泳げない。男がどういうわけか泳げるらしいということが、旅人たちの間ではちょうど噂になっていた。それならば、どうか、頼む、ということで。目立ったことをして日本人だということがバレるかもしれないという危険を冒して、男はみんなのヤクを連れ戻す役を買って出た。心臓が止まるかもしれない冷たい水の中を、泳いで対岸に行った。草をはんでいたヤクを追い立てた。慌てたヤクの群れは統率を乱して、再び川の方へ追い込まれた。さっきまでいた向かいの岸で人々の声援が上がる。
「ロブソン、がんばれ!」
ロブソンというのは男の僧侶としての名前。ロブソンは息も絶え絶えに対岸を駆けずり回り、一頭一頭ヤクを川に追いやった。羊が何頭か溺れて流された。再び川を泳いで戻り、仲間に介抱された。その日の夜は祝宴となった。冷え切って、横になったロブソンのもとに、みんなからありったけのご馳走(保存食)が運ばれた。
沢木は、80歳超えたロブソンが現在は盛岡にいて、商店をしながら静かに生活していると知って、会いに行った。毎月東京から新幹線に乗って話を聞き、それを本にした。ロブソンにはすでに家族がいて、妻が作ってくれる晩御飯の前に必ず居酒屋に寄り、酒を二合飲んだ。365日働き、ルーティンを崩さなかった。
そんな本に、付箋を付けたまま貸してくれたのが、職場のおばあちゃんだった。
彼女は自分を「左派だった」と言っていた。タンゴダンサーになりたくて、とにかく日本を飛び出したかった。デイサービスに来ていても、女としゃべるよりも、男の世話をしていた。もう少し私が若かったら。あなたとシルクロードに一緒に行きたかった、と言われた。挨拶のよう。そういう気持ちなら、わかります。